「生命とは何か」という問いに対する完璧な答えはありません。したがって、この問いに答えるためには、 さまざまな視点から「生命」にアプローチしてみることで理解を深めていくしかありません。そこでここでは、DNAとタンパク質という分子に注目して生命現象を語る、という アプローチをご紹介します。 こうしたアプローチは、一昔前は「分子生物学」と呼ばれ、物理学や化学、さらには情報科学の、いわば生物学の専門外の研究者が 臆面もなく闊歩する特殊な分野というイメージがありました。しかし現在の 生命科学においては、いかなるアプローチであろうとも、DNAとタンパク質という分子を意識しないで生命現象を論じる ということはあり得ないと断言しても過言ではない状況となりました。でも、「分子」という、どちらかと言えば物理学 や化学が対象とする、生命とは縁遠いように思われるものが、なぜ「生命」の理解につなが るのでしょうか。そのあたりを理解していただきたいというのが本講義の目的です。そして、「これら分子を通して生命を 眺めてみる」ということをこれまであまりしたことがない方々を対象に、そうしたアプローチの仕方に触れていただき、 生命を見る新たな視点もっていただきたいという思いでこの講義ノートを作りました。
ただし、この分野を包括的に述べるのは大変な作業です。しかも、筆者は物理学出身で生物学には外部から侵入してきた ある意味素人です。しかし、素人には素人なりの興味や論 理の組み立て方があり、生物学者とは違った視点があると思います。そこでここでは、包括的で網羅的な説明ではなく、 「タンパク質の形」に焦点を絞って(まあ、筆者の興味のある事柄を中心に、ということです)、それに まつわる話題、それもできるだけ身近な話題を取り上げながら、生命のある側面を描き出せたらいいなという思いで、 話しをしてみようと思います。
遺伝情報とは、遺伝現象によって親から子に伝わる情報のことです。それはどのような情報で、どのように記述され、 どのように発現し、どのように個々の生命現象に関与しているのでしょうか。実際、われわれの生命現象のほとんどは、 この親から受け継いだ遺伝情報に起因しています。生まれてから獲得した情報といえども、その生得的な情報基盤の上で獲得され、 処理された情報ということができます。したがって、遺伝情報の理解は生命現象を理解する上で欠くことのできない アプローチの一つと言えるわけです。
それでは、なぜDNAとタンパク質という分子にこだわるのでしょうか。それは、これらの分子が遺伝情報に関して 最も直接的で、重要な役割を果たしているからです。DNA とタンパク 質が生命の本質を担っている分子と言っても 過言ではないからなのです。
生命を理解する上でその普遍性と多様性という視点は重要です。ここで多様性は個性と言い換えてもいいでしょう。 地球には何百万から何億もの生物種が存在すると推定されています。また、同種の生物、たとえばヒトを取り上げても、 それぞれが個性をもち、まったく同じヒトはいません。したがって、「ヒト」を定義しようとしても、最後にはこの個性の 違いに行きつき、完璧な定義ができなくなってしまいます。それはすべての生命を一つの定義に押し込めようとしても起こることで す。さらに、地球上のすべての生物を念頭におきながら生命とは何かを考えても、他の天体に生命がみつかったとき、 その概念が成り立つ保証はありません。このことは物理学や化学の法則と比較してみるとその特殊性がよくわかります。 物理学や化学の法則は宇宙のどこであろうと成り立つと考えられています。換言すれば、物理学や化学が普遍性を見出すことを めざすのに対して、生命科学は多様性あるいは個性を重視する、あるいは重視せざるを得ない学問であるといえます。 物理学者が天体の運動とロボットの運動を同じ理論的枠組みの中で思考できるのに対して、生命科学では、 サクラの生態を極めることがゴキブリの生態の理解にはほとんど結びつかないのです。この点は、物理科学の思考をもった人が 生命科学にアプローチするとき、もっとも高い障壁の一つとなります。しかし、それは逆に、そのギャップに大 きな関心を払いながらアプローチすると、生命科学はまた違った側面を見せてくれるように思います。
ところで、生命は複雑なシステムです。個体としての生命だけが生命科学の対象ではありません。 個体の集合体である個体群や生態系の理解も欠かせません。また、個体を細分化していったときの器官系、器官、組織、細胞と いった部品の理解も必要です。すなわち、生命系を捉えるとき、その階層性という視点も重要です。こうした階層構 造に注目して生命系を見てみると、個体、生態系といったマクロな階層では多様性が顕著に現れ、組織、細胞といった ミクロな階層になるにつれ普遍性が顕著となることに気づきます。そして、細胞よりもさらにミクロな階層である分子のレベルに いくと、地球上のすべての生物において共通なDNAとタンパク質という分子にたどり着くの です。
しかし、DNAやタンパク質といった分子は、本来、物理学や化学が対象とするもので、たとえそれが生命の構成要素として 普遍的に見られるとしても、もはやそこには生命らしさは見られないようにも思えます。それでもDNAやタンパク質に 注目するのは、上で述べた遺伝情報にこれらの分子のもつ物理・化学的性質が直接的に関わっているからなのです。 DNAは遺伝情報を担う分子であり、タンパク質はその遺伝情報を実践する分子です。あるいは、DNAはタンパク質の 台本としての役割を果たし、 生命現象はタンパク質によって演じられていると喩えることができるかもしれません。
次回から追々説明しますが、DNAは4種類の塩基とよばれる要素がさまざま順番で何百万、何億とつながった分子であり、タンパク質は20種類のアミノ酸とよばれる要素が やはりさまざまな順番で何百、何千とつながった分子です。これは、少なくとも地球上の生物においては普遍的な事柄です。にもかかわらず生物種が多様であり、皆 さ ん一人ひとりが遺伝的個性をもつのは、その塩基やアミノ酸のつながる順番(配列という)が異なるからです。もちろん、一卵性双生児はそれらがまったく等しいわ けですが、それでもそれぞれの個性がありますから、すべて塩基配列、アミノ酸配列に帰着できるというわけではありません。しかし、そうした視点で生命 を眺めてみることで生命のどのような姿が見えてくるのか、すなわち、DNAとタンパク質という地球型生命に普遍的な基盤に立ちながら、生命系のもつ多様性を考 えてみようというのが本講義の主な目的なのです。
ちなみに、生命の問題は、その多様性がゆえに、何を語っても必ずと言っていいほど例外が存在します。そうした例外を無視した説明は正確さを欠くということは重々承知なので すが、生命科学を専門としていない読者のみなさんにはかえって混乱を生じ、理解の妨げになると思いますので、例外的な事柄には触れずに省略することが多いと思 います。また、基本的にヒトに関する話題を取り上げ、広く生物界に目配りした説明もしません。その点はご容赦いただきたいと思います。
上記の文章でも、「地球上のすべての生物において共通なDNAとタンパク質」という表現がありまし たが、ウイルスにはRNAとタンパク質からなるものがあり、そのことをコメントすべきか悩みました。そもそも、ウイルスは生命体と呼ぶべきか、否かという議論 もあり、すべてに目配りをして文章を書くのは、とても難しい作業だと実感しています。
分子生物学が勃興した今から50年以上前、「大腸菌の真実は象の真実」という分子生物学が掲げるキャッチフレーズがありました。それは、大腸菌であれ、象であれ、普遍的 な要素 であるDNAとタンパク質が理解できるようになれば、生命の普遍的な描像が描き出され、その本質が理解できるはずだという期待を表現していました。実際、DNAとタンパ ク質の理解によって生命の理解は大きく深まりました。しかしその一方で、生物種の違い、同種内での個体の違いもクローズアップされ、生命のもつ多様性に再び光 が当てられるようにもなりました。しかし、それは一昔前の博物学的な分類を目的とした興味というよりも、DNAとタンパク質という共通の基盤を得たからこそ可 能となった生物種間の比較、個体間の比較による、もっと本質的な生物の多様性の意義を問うものとなっています。
従来ならば、サクラとゾウを比較しろといわれても困惑するだけでしょう。また、コウモリとネズミは似ているか、似ていないかと問われても、その判断には主観が入ります。 しかし今では、両者をDNAやタンパク質レベルでより客観的に、より定量的に比較できるようになりました。さらには、こうしたDNAやタンパク質レベルの比較 から、生命系を時間軸に沿って展開し、議論することも可能となりました。すなわち「進化」の問題です。もちろん、ダーウィン以来、進化は生物学のなかで重要な 研究対象としての一角を占めていました。しかし、化石だけが主要な資料であった旧来の進化論には主観が入り込む余地が大きすぎて、どこかいかがわしさや胡散臭 さが漂い、 進化を学問として論じるこ とを敬 遠する研究者も多かったのは事実です。しかし今では、DNAとタンパク質の研究が進み、生物の進化に関してもより客観的な、より定量的な多くの知見が得られ るようになり、進化の視点をもたない生命現象の解析などあり得ないと言っても過言ではない状況が生まれています。そして、進化の問題とは、生 物の多様性とは何かという問いそのものであることも認識されてきています。決して、下等で単純な生物から高等で複雑な生物が誕生してきた過程だけが進化が議論 すべき問題ではな いという認識が広まってきているのです。
始めに述べましたように、「生命」を定義することはきわめて困難です。そこで、生命現象の特徴という表現で考えてみましょう。いろいろあるのですが、ここで は以下の3つを挙げたいと思います。
@ 自己複製により増殖する 遺伝情報の伝達 DNA
A 代謝を行う(高度に組織化された化学反応システムをもつ) 遺伝情報の発現 タンパク質
B 進化する 遺伝情報の変化
@〜Bのそれぞれに対して、「遺伝情報」をキーワードとした表現と、それに関与する分子としてDNAとタンパク質が提示されています。この枠組に沿って、これから遺伝情 報について述べていきたいと思います。
● 複雑系 〜 多様な要素から構成され、それらが互いに相互 作用することで、個々の要素の性質からは予想もできないような新たな性質を創発するシステム。生命はまさにその複雑系の典型例である。
● コウモリとネズミ 〜 コウモリはネズミの仲間か?