生命のもつ遺伝情報はDNAに塩基配列の形で保存され、機に応じて複製され、次世代へと引き継がれていく。さらにそのDNAの塩基配列は、RNAを介して タンパク質のアミノ酸配列へと翻訳され、さまざまな種類のタンパク質が生合成される。こうして生合成されたタンパク質が、それぞれがもつ生化学的機能を他のタ ンパク質との関係性の中で発揮することによって、高度に組織化された化学反応系としての生命は成り立っている。これが、「生命とはタンパク質の存在様式 である」と表現される所以でもある。
しかし多くの教科書は、遺伝情報の流れに関する中心教義、セントラルドグマを、タンパク質のアミノ酸配列に翻訳されたところまで記述して終わる。しかし実 際に は、その後タンパク質はそのアミノ酸配列によって決まる固有の立体構造を形成し、その立体構造がそのタンパク質の機能発現に重要な役割を果たしている。す なわち、その固有の立体構造や、それによって決まる機能に関する情報もまた、DNAの塩基配列からその姿を変えて伝わってきた情報であり、遺伝情報の流れのス キームの中に含まれていることにも注目しておく必要がある。
タンパク質の立体構造に関する情報が生命科学において果たしてきた役割の大きさは計り知れない。分子レベルで生命現象を語るとき、分子間相互作用を理解することが基本中 の基本となるが、その分子間相互作用のほとんどがタンパク質とタンパク質、あるいはタンパク質と他の生体分子との相互作用であり、その相互作用のメカニズムを 原子レベルの分解能で論じることを可能にしてくれたのがタンパク質立体構造に関する情報である。
タンパク質の立体構造解析は、1958年にJ.C. Kendrewが分解能6.0Åで、そして1960年にM.F. Perutz が分解能5.5Åで、すなわち構成原子の3次元座標を特定できるレベルの分解能で、ミオグロビンのX線結晶構造解析に成功したのが最初である(2人は1962年、ノーベル 化学賞を受賞している)。
そしてこれを契機に、解析されたタンパク質が増加し、それにともなって1971年にはPDB (Protein Data Bank) がアメリカで設立され、タンパク質立体構造データの収集が始まった。1980年代には、立体構造決定の研究成果を論文発表するためには、あらかじめPDBに構造データを登 録すること が義務付けられるようになり、さらに核磁気共鳴法(NMR法)やクライオ電子顕微鏡法など新たな構造決定法も開発され、設立から50年、その登録数は着実に増 加して、現在20万件以上のデータが登録されている。いまやPDBに蓄積されたデータは生命科学にとって欠くことのできない研究資源であり、これを活用するこ とで生命の理解が大きく進展してきた。そしてこれからも発展していくであろう。
そうした中で、計算化学・計算物理学の発展とともに、PDBデータを基盤にしたコンピュータによるタンパク質立体構造の研究も、タンパク質の理解のた めに重要な役割を担ってきた。
1つのタンパク質分子はさまざまな3次元構造を形成する能力を本質的にもっている。それは、タンパク質のような鎖状高分子がもつ一般的な性質ではあるが、タンパク 質には他の多くの鎖状高分子とは異なる際立った特徴がある。それは、生理的条件下で取ることのできる立体構造がきわめて限られた範囲に限定されることであ る。それは、「天然構造 native structure」と呼ばれ、立体構造エネルギー(構造のポテンシャルエネルギー)最小の構造としばしば想定されている構造である(正確には、水などの環境も含めた系に おける自由エネ ルギー最小の状態であるが、近似的に、タンパク質分子単独の立体構造エネルギー最小の構造として議論を進めることが多い)。そして、天然構造以外の構造の集合体をランダム 構 造とみなし、温度や溶媒濃度などの環境条件の変化によって起こる天然構造とランダム構造間の構造転移は、秩序⇔無秩序転移の例として、物性物理学や 統計力学の観点から興味をもって研究されてきた。また、アミノ酸配列からその天然構造が決まる構築原理を明らかにするための研究も、上で述べたように、遺伝情報解読の一環 とみなされ、多くの研究者の興味をかきたててきた。
また、タンパク質分子には、一般に、他のタンパク質や分子相互作用する部位があり、そこにおける相互作用の実態を生化学的な視点から明らかにするための研究も幅広く行わ れ てきた。タンパク質の特徴の一つが、それぞれのタンパク質は特定のタンパク質や分子のみを選択し、相互作用する「特異性」であり、それらは 「鍵と鍵穴モデル」で表現されるように、タンパク質と相互作用相手との立体構造の幾何学的相補性および相互作用の適合性などによって説明されてきた。 そうしたメカニズムをより精細に説明できるようになってきたことも、タンパク質の立体構造が原子レベルの分解能で明らかになったことが大きく貢献している。
当初、天然構造は、アミノ酸配列によって規定される立体構造エネルギー最小構造だけの単一の構造とみなされ、どちらかと言えば剛体的な捉え方をされていた。PDBが提供 す る立体構造のCG画像が、そうしたイメージを醸し出してきたことも否めない。しかし、その後の多くの実験やコンピュータによる理論研究などによって、天然構造と は、その近傍を含めたミクロ な状態(立体構造)の集合体と考えるのが妥当とみなされるようになり、天然構造のもつ柔らかさの意義が議論されるようになった。タンパク質の天然構造は、統計力学的な存在 確 率をもって絶えずある構造から他の構造へと変化している。しかし、その変化は、統計力学の教科書で記述されるような極小値のまわりでのランダムな構造の揺らぎ というわけではない。そこには酵素における基質結合、イオンチャンネルタンパク質におけるゲートの開閉、触媒におけるアロステリック効果など引き起こす上で必 要 となるドメインレベルの協奏的な動きが含まれていることが明らかとなったのだ。酵素の結合部位の鍵と鍵穴モデルも、剛体と剛体の結合というイメージではなく、構造揺らぎを ともなうもっと柔らかな結合過程と認識されるようになった。
こうしたタンパク質立体構造のもつ「柔らかさ」のイメージ構築に、コンピュータによる研究は大きく貢献してきた。次のページでは、そのタンパク質立体構造 のコンピュータによる研究について述べることにする。