最近、「多様性」という言葉がよく使われます。遺伝子の「多型」も遺伝的個性の多様性ということになります。しかし、多様性の意義となると、実のところ、十分に理解され ているとは言えないのではないでしょうし、多型をどう捉えるかについても、まだまだ共通の認識が出来上がっているわけでもありません。
DNAの変異は不可避です。しかし、すべての変異が受け入れられるわけではありません。ダーウィンの進化論によれば、淘汰、あるいは選択が起こり、もっと も環境に適したものが最終的に残るとされています。しかし、一方で、そうした自然選択から「中立」な変異があることもわかってきました。これは1969年、木 村資生さんが世界に先駆けて提唱され、1970年代から80年代にかけて論争がありましたが、今では木村資生の中立説として広く認められています。中立説によ り自然選択が否定されたわけではありません。自然選択の機構が働いているのは確かです。しかし、最も環境に適したものへと収束するのではなく、常に集団に「多 型」が保持されるよう に生命系はできているようにみえます。最初の回で多様性の話をしましたが、生命系を理解する上でも多様性の理解は欠くことのできない課題の1つです。ここでは、そうした議 論をご紹 介することはできませんが、進化の話題のなかで多少触れようと思っています。
また、異なる遺伝子に対して、「正常」と 「異常」ではなく、「多型」という概念が強く意識されるようになったのも、中立説が認められてきたことと無関係ではないと思っています。
「正常」と「異常」という呼称に関して、色覚についての多様性をどのように呼ぶかといった問題を紹介しておきます。古典的には、眼科医が「正常」と「異 常」の区分けする色覚に関する症状があったのですが、それだけではすっきり説明てきないことも多く、呼称の問題は社会的な懸案となっていました。そこで、たと えば、眼科医の言葉で「先天赤緑色覚異常」と呼ばれていたものが、2005年に改訂され、「色盲」は2色覚、「色弱」は異常3色覚となりました。「患者団体か ら「色盲」の名称を一掃してほしいとの要望」があって「色盲」という言葉を廃したのですが、一方で、「異常」という言葉は残りました。
これについては、当事者団体のみならず、日本遺伝学会など研究者たちも「異常ではない」との指摘をしていますが、医療側からの回答は、「違いを知り、共に 生きるために、時には厳しい現実に向き合うために、「異常」は廃止することができない言葉である」というものだったようです。というわけで、今のところ再改訂 の動きはないようです。
眼科の診療以外の局面では、「正常/異常」ではなく「多様性」だという理解を織り込みつつ、個別の呼称は用途によって使い分けることが必要かもしれませ
ん。(色覚の呼称の問題については、集英社 学芸の森
https://gakugei.shueisha.co.jp/mori/serial/iroiro/008.html を参照しました)