生命現象を組織化された化学反応ネットワークとみなすとき、化学反応の触媒をする酵素がきわめて重要な役割を果たしていることは本文で見てきました。ここ では、エントロピーという観点から、酵素の役割の重要性を眺めてみたいと思います。
エントロピー増大は生命にとって死活に関わる重要な問題です。エントロピーを一言で表現するのは難しいですが、システム内部において、その構成要素がより ランダムに振舞い、乱雑な状態にあると きエントロピーは高いといい、構成要素の振る舞いがより制約され、より秩序立っているときエントロピーは低いといいます。当然のことながら、生命はエントロピーの低い状態 に保たれていることが必要です。
どんなシステムであろうと、それが生命体であろうと、なかろうと、たくさんの分子で構成されています。分子には、当然のことながら意志がありませんから、 分 子間に相互作用がなければ自由に振舞います。自由に、とは、分子が取り得るあらゆる可能な状態を無作為に採用しながら、その状態を絶えず変遷させていくということで す。そして、その自由度が高い状態がエントロピーが高い状態であり、その可能性が、分子間の相互作用や環境との相互作用で制限されている状態がエントロピーが 低い状態、ということになります。したがって、加えられていた何らかの制限から解放されると、どんなシステムでも、エントロピーの高い状態へと必ず遷移してい くことになりま す。これが「エントロピー増大の法則」とよばれるもので、自然界全般に普遍的に成り立つ物理法則なのです。この法則からは生命といえども逃れることはできません。したがっ て、何 らかの対策が取られないと、生命はエントロピーの高い死へと向かうことになります。そこで、その方策の一端を酵素の機能に注目して見てみようというわけです。
ところで、エントロピーにおいては、「熱」が重要な意味をもちます。そもそもあるシステムの「温度」とは、そのシステム内部を構成する分子の運動の激しさ を表しています。すなわち、温度が高いと、システム内部では分子は激しく運動し、より自由に行動することになり、温度が低いと、運動は小さくなり、分子間の相 互作用が効果を発し、行動が制限されることでより秩序が高まることになります。したがって、システムへの熱の供給は温度をあげることになり、エントロピーを上 げることへとつながります。
このことを念頭において、酵素の働きを思い出してみましょう。酵素は、反応の進行に必要な活性化エネルギーを低減するという機能をもっていました。その結 果、外部から供給すべきエネルギーが小さくて済みますし、化学反 応にともなう熱の発生も低く抑えることができるのです。すなわち、熱の出入りを小さくすることで、システム内のエントロピーの増大を低く抑えているのです。
さらに、酵素はその基質に対して高い特異性をもっています。すなわち、酵素の基質結合部位は、特定の基質がスムーズに、そして正確に結合するようにアミノ 酸が配置されており、基質が試行錯誤的な、無駄な動きをしないように作られています(換言すれば、酵素は、アミノ酸配列によって決まる特定の形 [立体構造] へと折りたたまれることにより、その特異な結合部位 [鍵穴] が形成されます)。これにより、結合後に起こる化学反応も、目的とする化学反応だけが秩序だって、そして効率的に進行することを保証し、さらには、化学反応が終了すると速 やかに生成物を放出することができるのです。上で述べたように、起こりえる状態の場合の数を限定する動きはエントロピー増大の抑止にきわめて重要です。酵素 と基質の鍵と鍵穴の関係、あるいは酵素の基質特異性が強調される背景には、こうした視点があることもぜひ理解していただきたいと思います。
ここでは、酵素とエントロピーに焦点を絞ってお話をしましたが、「生命とエントロピー」というように大きく視野を広げることもできます。しかし、ここでは そこまでは言及せず、別の講義の中で触れたいと思っています。