エントロピー・多様性・複雑系

第4回 混合

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4.1 鉄はなぜ伸び縮みしないのか

 前回の講義で、われわれの身の回りにあるものはすべて、見た目、すなわちマクロには動いていなくとも、内部のミクロの世界では、分子たちが熱運動している ことを述べまし た。しかし、それではなぜ、見た目動かないのでしょうか?これが今日の最初のテーマです。

 そこで、簡単なモデルを考え、調べてみましょう。固体の鉄の塊を考えます。図4.1のようにミクロに見ると、鉄の原子は、互いの相互作用によって最適な距離があるため (第2回講義の原子間のポテンシャルエネルギー参照)、その距離を保って整然と並んでいます。一方、前回の講義で、原子はすべて運動しているということでした か ら、原子はお互いの相互作用に束縛されながらも、その最適距離より少し離れたり、近づいたりしながらランダムに振動しています。図4.1左はその様子を模式的に描いたもの です。 各球が原子を表し、原子間の相互作用をバネで表現しています。3次元で考えるのは面倒なので、図4.1右のように横1列のみを考えます。原子の動きに注目して もいいですが、バネの伸び縮みとして原子の運動を捉えることもできます。しかも、さらにモデルを簡略化して、バネは、伸びた状態(赤の矢印)と縮んだ状態(青 の矢印)の2つの 状態のどちらかしかとらないとします。そして、それぞれのバネは他のバネとは関係なく、伸びたり縮んだりすると想定します。すると、偶然、伸びた状態のバネが圧 倒的に多ければ、マクロにも鉄の塊は伸び、偶然、縮んだ状態のバネが圧倒的に多ければ、マクロにも鉄の塊は縮むはずです。やはり、鉄の塊は、マクロに見ても、 伸 びたり縮んだりするのが本来の姿ではないでしょうか?

   
図4.1.鉄の伸び縮みを検証するためのモデル

 しかし、ここで考えるべき点があります。それぞれのバネは他のバネとは無関係に伸びたり縮んだりすると、図4.1右の例では4本のバネがありますから、全 部で \( 2^{4}= 16 \) 通りの場合があります。これらのうち、全部が伸びた状態と全部が縮んだ状態はともに1通りしかないのに対して、たとえば、2つは伸びた状態で残りの2つは縮んだ状態という のは、 組み合わせの問題ですが、\(  _{4} \mathrm{C}_{2} = 6 \)  通りあります。この6つの場合は、全体の長さは全部が伸びた状態と全部が縮んだ状態の中間となり、どれも同じ長さになります。すなわち、個々のバ ネがどちらの状態にあるかという微視的な状態に違いがあっても、われわれはそれを認識することができませんから、全体の長さという巨視的な量だけに注目すると、この6つの 場合については違 いがなく、同じ状態と認識されるわけです。結局、全体の長さはいろいろ変化することが可能ですが、その長さによって出現確率が異なるという状況が生まれることになりま す(図4.1右の右端の数字がその場合の数を示しています)。しかし、どの長さも出現確率は 0 ではないわけですから、やはり、全体の長さが変化しないという説明にはなっていません。

 そこで更に、その出現確率のバネの本数(すなわち、構成する原子の数)への依存性を調べてみましょう。いまバネの総本数を \(n\) 本とします。全体の長さ \(L\) は固定し、 1本のバネの長さは \(L/n\) とします。こうすると1本1本のバネの長さは変化しますが、それぞれ伸びた状態と縮んだ状態は自然な長さの、たとえば10%増しおよ び 10%減とすると、すべてのバネが伸びた状態のときの長さと、すべてのバネが縮んだ状態のときの長さはバネの本数には依存せず、それぞれ \(1.1L\)、\(0.9L\) となります。いま \(n\) 本のバネのうち \(r\) 本が伸びた状態とすると、その場合の数は \( _{n} \mathrm{C}_{r} \) となります。したがって、全体の長さがある値をとる確率は \( _{n} \mathrm{C}_{r} \) に比例しますの で、 \( _{n} \mathrm{C}_{r} \) を \(r\) についてプロットすればいろいろな長さの出現確率がわかることになります。

 図4.2にバネの本数が6、60、300の場合についてその確率を求めた結果を示しました。


図4.2 バネの本数による全体の長さの分布の違い
上の図では、6本のバネからなる場合と、100本のバネからなる場合について、短い状態のバネを
赤で、長い状態にあるバネを緑で表し、それぞれ一つの例を示している。下のグラフは、バネの
本数が、6本、60本、300本の場合について、全体の長さの分布を示している。どの場合にも、
全体の長さの最大値、最小値は等しいが、バネの本数が増えるにつれ、中央近傍の値となる確率が
高まり、ほとんどを占めるようになる。

 右端がすべてのバネが伸びた状態 \(1.1L\)、左端がすべてのバネが縮んだ状態 \(0.9L\) で、中央がその中間の値(平均値)\(L\) となります。統計学をやった方はもう何を言いたいかわかったかと思います。バネの本数が変わることで確率の分布 が変わるのです。バネの本数が増えると確率の広がり、すなわち標準偏差が小さくなるのです( \( \sqrt{n} \) に反比例して小さくなります)。 実際の原子の数 \(n\) の桁数は \(10^{23}\) です。平均値からのずれ、すなわち標準偏差はきわめて小さくなり、見た目の長さが \(L\) より長くなったり、短くなったりする確率は実質 0 となります。したがって、物質内部で熱運動が起こっていても、それらがランダムに起こっているのであれば、巨視的量は変化しないということになります。ランダムさとは偏り がないことですから、右に動くものがあれば、それと同じ数だけ左に動くものがあり、上に動くものがあれば、それと同じ数だけ下に動くものがあるのです。どんな 方向であ ろうと、ある動きとその逆の動きをする原子あるいは分子の数はほぼ同数であり、その差は、全体の原子数や分子数と比べたら、限りなく小さいといえるのです。

(注)「確率 \(p\) で起きる事象について, 試行を \(n\) 回行ったとき, その事象が起きた回数が \(r\) 回であったとする。このとき,試行回数 \(n\) が大きくなればなるほど比率 \(r / n\) は、 \(p\) に限りなく近づいていく」という統計学の大数の法則を、ここでは単に述べているにすぎません。コインを10回投げ、6回表で、4回裏でも不思議に思いませんが(5回、5回 という理論的な平均値からずれる確率はありますが)、1億回投げ、6千万回表で、4千万回裏というデータを見たらおかしいと思う(5千万回という理論的な平均 値 からこんなにもずれる確率はほとんど 0 のはずだ)、そんな直感で理解していただければ結構です。

4.2 混合

 前回の講義で拡散の話をしましたが、微視的な状態数を数えるという観点からもう一度見てみましょう。

 図4.3に簡単なモデルを示しました。


図4.3 混合のモデル

 たった16個の分子からなる系です。赤色の分子が8個、青色の分子が8個です。これらが自由に動いていいのですが、簡単にする ために格子点の上にのみ存在するとしています。物理学では、よく、こうして現実を非常に単純化して考えます。 さて、赤の分子と青の分子の配置の仕方は何通りあるかと言うと、16格子点の中から8つの格子点を選んで赤とすれば、残りが青ということになりますから、 \( _{16} \mathrm{C}_{8} = 12,870\) 通りあります。このうち、赤が右半分、青が左半分となるのは1通りであるのに対して、赤が4個右半分に、残りの4個が左半分にあるのは4,900通りありま す。その他の場合の数は図4.3の通りですが、ここで問題となるのは、われわれが赤と青が分離しているとか、混合状態にあるとか表現するとき、これら微視的状 態のどれに対応するかということです。その正確な境界は議論があるかもしれませんが、大切なことは、混合状態に分類される微視的状態が圧倒的多数を占めるとい う点です。そして分子数が増えれば、分離状態に分類される微視的状態の割合は限りなく 0 に近くなるということです。

 分子は自由気ままに動いてさまざまな微視的状態を経巡ります。どの微視的状態も等確率で実現されると考えることができます。しかし、巨視的状態としてわれ われ が観察するときには、個々の微視的状態は、たとえば分離状態か混合状態のどちらかに分類されてしまいます。そうなると、その微視的状 態数の多い巨視的状態が確率的に実現されやすいということなります。そして、一方の巨視的状態の微視的状態数が圧倒的に多い場合には、たとえ初期状態は微視的状態数の少な い巨視的状態にあったとしても、系は次第に微視的状態数の多い巨視的状態へと遷移し、再び微視的状態数の少ない巨視的状態に戻ることはほとんどあり得ない、す なわち、実質的に、その確率は 0 となります。これが、微視的状態 数という観点からみた巨視的現象の不可逆性であり、実は、これこそが、エントロピー増大の法則が言わんとしていることなのです。


図4.4 分子の拡散(左)と熱の拡散(右)
ひとたび @からCへと拡散が進むと、Cから@という逆の過程は、外部から何らかの
操作をしない限り、決して起こらない。右の図は、高速で運動する分子と低速で
運動する分子の混ざっている割合を色で表していると考えれば、左と本質的に
同じことを表現していることになる。

4.3 エネルギーの質

 室内に置いた風車。窓を開け、風が吹き込むと風車が回ります。しかし、窓を閉め、室内の空気に動きがなくなると、風車は止まってしまいます。なぜでしょうか?ま た、窓を開けていたとき風車を回していた空気はどうなってしまったのでしょうか?こんな問題を考えてみたいと思います。


図4.5 風車を使ったエネルギーの劣化の説明

 風は空気の分子が揃って同じ方向に運動している状態といえます(図4.5左)。この分子たちは、揃った方向に運動しながら風車に衝突することで風車を回すことができ ます。しかし、窓を閉めると、揃って運動していた空気の分子たちはその後、部屋の壁やさまざまな物に衝突し、その向きを変えていきます。この間、実際には衝突 した ことで壁や物を温め、エネルギーを失いますが、とりあえずそれを無視すれば、空気のもつ運動エネルギーの大きさは変わりません(エネルギー保存の法則)。ただ、運動の方向 がば らばらになってしまったことにより、空気の分子たちは再び風車に衝突するときには、さまざまな方向から衝突するようになります。その数は膨大ですから、ある方向から衝突す る 分子の数が 他の方向より大きくなる確率はほとんど 0 となります。そのため、風車に衝突してくる分子の力が互いに釣り合い、風車を回す力とはなり得ないのです。風として観測されていた 空気の分子たちは、相変わらず同じ大きさの運動エネルギーを保持しているのに、運動方向がランダムになったことで、風車を回すという仕事をすることができなく なったのです。

 第2回講義のエネルギー保存の法則の話題のとき、エネルギーの量は増えも減りもしないのに、なぜ節約しなければいけないかを問いました。それに対して、 「量は保存され るが、エネルギーの質は劣化する」と答えることができます。風は分子が揃って運動しています。静かな部屋でも空気の分子は運動しています。しかし、それぞれがバラバラな 方向に運動していると風車を回すことができません。このバラバラになったことがエネルギーの質の劣化の典型例なのです。 しかも、バラバラに運動している空気の分子がひとりでにみんな揃って運動するようになることは絶対にありません。揃っているものがバラバラになることは起こりますが、その 逆は起こらない。したがって、これも不可逆性をもった現象の例となります。空気の分子が揃って運動し、風車を回すという状態の微視的状態数と、それらがばらば らに 運動し風車を回すことができないという状態の微視的状態数では、後者が圧倒的に大きいために、こうした状況となるのです。そしてこれもまた、エントロピー増大の法則を 具現化した現象ということになります。

 ところで、扇風機を使えば風を吹かすことはできるんじゃないのか、と思われた方もおられると思います。確かにその通りです。外部からのエネルギーを使えば、再び 風を吹かすことが可能です。それなら何も問題にならないのでは、と言いたいところですが、「エネルギーを使えば」上で述べた「エネルギーの劣化」が必ず問題と なりま す。風車を回すことで生み出される利用可能なエネルギー(この場合、たとえば電気エネルギー)と、扇風機を回すことで生じるエネルギーの劣化を天秤にかけたとき、 どちらが優勢なのかといった問題は、ここまでの議論では何ともいえません。この問題に答えるためにはもうしばらく準備が必要です。

(風車を回して発電し、その電気を使って扇風機をまわし、それで風車を回して発電し・・・。さて、 何が起こるかを考えてみてください。)

4.4 ブラウン運動

 鉄の伸び縮みをわれわれが観測できないのは、非常に多くの数の分子からなるため、平均値からの分散あるいは平均値のまわりの揺らぎが非常に小さいためであ ると上で説明しました。しかし逆に、関わる分子の数が少なければ、われわれは巨視的な現象でも揺らぎ(平均値からのずれ)を観測できることを示唆しているとも 言えます。 もちろん、原子や分子を直接見ることができれば、そうした揺らぎを観測できるはずですが、もう少し巨視的な世界で、揺らぎを観測することはできないでしょう か。実は、光学顕微鏡で見える程度の世界で、その揺らぎを観測できる現象があるのです。それが、ブラウン運動とよばれるものです。

 ブラウン運動は、もともと1827年、植物学者ロバート・ブラウンが花粉を顕微鏡で観察していたとき、水の浸透圧で破裂した花粉から水中に流出し浮遊した微粒子 がランダムに動いていることを発見したことに由来します。当初、その微粒子が生命をもつことによる運動と考えられましたが、その後、金属の微粒子などでも同じ 現 象が起こることから、生命とは関係のない現象とわかります。現在では一般に、液体のような溶媒中に浮遊する微粒子がランダムに運動する現象をブラウン運動とよんでいま す。

 この現象の原因は長い間不明のままでしたが、1905年、アインシュタインにより、熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引き起こされているという論文が 発表されました。この論文により、当時まだ不確かだった原子および分子の存在が実験的に証明出来る可能性が示されました。後にこれは実験的に検証され、原子や 分 子が確かに実在することが確認されたのです。

   
図4.6 ブラウン運動
(左)花粉から出た粒子(黄色い粒子)に水分子(黒い小さな球)がさまざまな方向から衝突
している様子をシミュレーションしたもの。その衝突の仕方に偏りが生じると粒子が動きます。
(右)粒子の運動の軌跡。ランダムに方向を変えながら動くのがブラウン運動の特徴です。
英語では random walk と言いますが、酔っ払いの足取りみたいだということから、
日本語では酔歩と訳されています。
図の出典:ブラウン運動 @Wikipedia

 ブラウン運動では、花粉から飛び出した粒子くらいの大きさのものに多くの水分子が衝突するわけですが、左からと右から、あるいは上からと下から、といった逆方向 で衝突してくる分子の数に有意なばらつきが出るために両者の衝突が釣り合わず、ゆらゆらと揺らいでしまうのです。

 われわれの身の回りにあるものは、膨大な数の原子や分子からできています。しかも、停止しつづける分子は一つもなく、絶対温度に比例する運動エネルギーを もって運動しています。 彼らは、分子間の相互作用によってある程度束縛は受けますが、ランダムに運動する余地は常に残されています。そうした状況の中では、たとえば、コインを10枚 同時に投げて全部表が出るということは、1000回もやれば1度くらい起こりますが、1億枚同時に投げて全部が表になることは起こり得ないように、それら分子 たち が、外部から何らかの手を加えることなく、何らかの秩序ある振舞いをする確率は実質 0 となります。したがって、外部からの操作で何らかの秩序ある振舞いをしていたと しても、その操作をやめれば、ひたすら無秩序状態へと遷移していく、ということがイメージできたでしょうか。まだエントロピーを定義していませんが、これこそが、 エントロピー増大の法則なのです。

 そして、ランダム化するとは、偏りがなくなる方向へと変化するということでもあります。何らかの差が消え、均一化していくということです。熱いものと冷た いものがあり、接触させれば、その温度差を解消するように一様な温度になっていきます。拡散は濃度差を解消する変化と捉えることもできます。高気圧と低気圧の 圧力差に よって、風が吹き、それがさまざまな気象現象を引き起こしますが、これも圧力差を解消するための変化と捉えることができます。そしてその差が解消され、均一になると、 変化は止まります。これがエントロピーが最大になった状態です。 ここでぜひ注目しておいてほしい点は、エントロピー増大の法則は、差があるとき、差を解消するために流れを生じ、差が解消されるとその流れは消えるということを主 張します。しかし一方で、高気圧・低気圧の例のように、一端消えてもまたその差を生み出す機構が自然界にはありそうだということも心に留めておいてください。 これはこの講義の最後の方で、とても重要な視点となります。

⇒ 第5回 熱機関

バネとゴム