タンパク質の形を通して学ぶ「遺伝情報とは」

第30回 遺伝子重複

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 進化はまだすべての人に認められたわけではありません。特に、信じている宗教がそれを否定しているからという理由で信じない方が多いと思いますが、そうで なくても、進化を実際に見ることができませんし、何らかの意思をもった存在を想定することなく、単なる偶発的な出来事としてこれだけ複雑で高等な生き物が現れ てくるという論理を受け入れ難いことも確かです。

 進化を否定する人たちがよく持ち出すたとえがあります。「チンパンジーがタイプライター(現代ならパソコンで しょうか)の鍵盤を長時間、ランダムに叩き続けて、偶然シェイクスピア級の作品を打ち出すことが可能だろうか」というものです。明らかにそれは数学的に不可能 です。進化も同様に、でたらめに4種類の塩基を30億個並べたらヒトのゲノムが偶然できたなんてことは絶対にあり得ません。この疑念に対して、現代生命科学は 実験と 理論に裏付けられた確固たる答えをもっているわけではありません。しかし、少なくともこの質問の仕方が誤っていることには注意を払う必要がありそうです。今回 の講義はそれを確信させてくれる現象を解説します。

図30.1 タイプライターを打つチンパンジー  by Image Creator

30.1 リゾチームとα-ラクトアルブミン

 われわれのDNAは30億の塩基対からなりますが、それを詳しく調べると、遺伝子を含むDNAのある領域が重複して存在するという現象をDNA上のあちら こち らで見ることができます。これを遺伝子重複といいます。多くの場合、まったく同じというわけではなく、異なっている部分があるのですが、明らかに、元々はまったく同じで あったものが長い年月で変異が加わり、異なってきたと推定できます。

 具体例をあげましょう。リゾチームとよばれるタンパク質とα-ラクトアルブミンとよばれるタンパク質があります。以下にそのアミノ酸配列を並べて表記して み ました。いつも言うように、DNAの塩基配列を並置するのと基本的に同じ意味合いをもっています。

      Lysoz  MKALIVLGLV-LLSVTVQGKVFERCELARTLKRLGMDGYRGISLANWMCLAKWESGYNTR
      Album  MRFFVPLFLVGILFPAILAKQFTKCELSQLLK--DIDGYGGIALPELICTMFHTSGYDTQ
 
Lysoz  ATNYNAGDRSTDYGIFQINSRYWCNDGKTPGAVNACHLSCSALLQDNIADAVACAKRVVR Album  AIVEN--NESTEYGLFQISNKLWCKSSQVPQSRNICDISCDKFLDDDITDDIMCAKKIL-
 
Lysoz  DPQGIRAWVAWRNRCQNR  リゾチーム  lysozyme Album  DIKGIDYWLAHKALCTEK        α-ラクトアルブミン  α-lactalbumin

                 図30.2 リゾチームとα-ラクトアルブミンのアミノ酸配列の比較

          

      図30.3 リゾチーム(左)とα-ラクトアルブミン(右)の立体構造の比較

 各アルファベットがアミノ酸の種類を表しています。黒字が両タンパク質で共通のアミノ酸、赤字が異なるアミノ酸です。ハイフンは対応するアミノ酸がないこ と を意味します。そこで切れているというわけではありません。この二つのタンパク質のアミノ酸配列の一致度は決して大きいとは言えませんが、それでも、まったく関係のない アミノ酸配列を並べた場合、偶然にこれだけ一致する確率はきわめて小さく、この一致度はとても偶然とは思えません。もともとは同じタンパク 質であったものが、長い年月で変異し、異なるタンパク質になったとするのが最も合理的な解釈でしょう。

 このことは、両者の立体構造を比較してみると確信できるでしょう(図30.3)。実は、上のアミノ酸配列の比較で、対応するアミノ酸が異なる場合でも、そ の多く が、物理化学的性質の近いアミノ酸どうしであることがほとんどなのです。

 ところで、この2つのタンパク質の機能を見てみましょう。リゾチームは真正細菌の細胞壁を構成する多糖類を加水分解する酵素で、ヒトの場合、涙、鼻汁、母乳な どに含まれています。殺菌効果があるため、リゾチーム配合を謳っている風邪薬もありますので、名前を聞いたことがあるかもしれません。生物界に広く分布してい る 酵素でもあります。

 一方、α-ラクトアルブミンは、β4ガラクトシルトランスフェラーゼ T という酵素と会合体を形成してラクトース合成酵素となり、ラクトース(乳糖)を合成する機能をもちます。すなわち母乳の主要成分の一つで、哺乳類に固有のものです。

 これらの知見を総合すると、次のようなシナリオを描くことができます。

 約3億年前、爬虫類こそ生物界の王者でした。しかし王者といえども子育ては容易ではありません。当時の祖先たちは薄く柔らかい膜に覆われた卵を産んでいま し た。卵に雑菌が入り込むと中の赤ちゃんが死んでしまいます。そこで母親たちは殺菌物質リゾチームを含む汗のような液体で卵を濡らし雑菌の繁殖を防いでいまし た。私たちの祖先の子を守ろうとする営みの第一歩です。そんな祖先たちの体内で思いがけない変化が起こり始めました。DNAでは長い時間の中で時折変化が起こ ります。ある時、偶然リゾチーム遺伝子がコピーされ、その後その一部が変異したのです。その結果、遺伝子から作られるタンパク質の機能も変わりました。こうし て生まれたのがα-ラクトアルブミンです。偶然起きたこの出来事で卵の殺菌が目的だった母親の汗に甘い栄養分が含まれるようになったのです。これを卵からか えった赤ちゃんが舐めたことで子育てに革命が起きました。子供が甘い汗を頼りに育つようになり、母乳の誕生へと繋がる大躍進が起きたのです。母乳によって母と 子はより分かちがたく結びつき、それが母の愛情へと繋がっていったのです。(この段落はNHKスペシャル「生命大躍進2 こうして母の愛が生まれた」 (2015) の解説記 事を一部改変して用いました)

30.2 ヘモグロビン遺伝子

 もう一つ例をあげましょう。

 前回の講義でも出てきましたが、ヘモグロビンというタンパク質です。赤血球に大量に含まれ、肺で酸素を吸着し、末梢の細胞へと酸素を運搬する機能をもって い ます。このヘモグロビンは、α鎖2本とβ鎖2本からなりますが、α鎖とβ鎖はそのアミノ酸配列の43%が一致しています。また、ミオグロビンとよばれるタンパ ク質があります。ミオグロビンは筋肉などにあって、酸素を貯蔵する機能をもっていますが、ヘモグロビンα鎖とアミノ酸配列が26%一致しています。これらの一 致度は、偶然にしてはかなり高く、しかも機能も立体構造も似ていることから、やはり同一の祖先タンパク質から遺伝子重複によって派生してきたと考えられます。

 実際、われわれのDNAを調べてみると、ヘモグロビン遺伝子に関して、もっと多くの遺伝子重複が過去に起こっていたことが推定されました。ヒトでは、α鎖 の遺伝子は第16番染色体に ζ、ψζ、ψα、α、α2、ψθ とよばれる重複遺伝子群が、β鎖は第11番染色体にε、Gγ、Aγ、ψβ、δ、βとよば れる重複遺伝子群 がクラスターを形成しています。また、ミオグロビンは第22染色体にあります。

図30.4 ヒト・ヘモグロビンα鎖、β鎖、ミオグロビンの遺伝子重複の経緯

 これら重複遺伝子の塩基配列は互いによく似ているもののまったく同じではなく、 それぞれ異なる特性をもっています。まず、α鎖、β鎖の遺伝子は、ψζ、ψα、ψβ、ψθ を除き、どれもがヘモグロビンを構成するのですが、その発現の時期が異なり ます。図30.5に示したように、ζとε は胚期に、α、α と  Gγ、Aγ は胎児期に、そして α、α と δ、β が出生後に発現します。また、機能的にも、酸素吸着の能力に差があります。胎児期に作られるヘモグロビンは出生後に作られる ヘモグロビンに比較して、同じ酸素濃度における酸素吸着能が高いのです。胎児は肺呼吸をしませんので、胎盤で、母体のヘモグロビンから解離された酸素を胎児のヘモグロビン と結合させて胎児の体内に運ばれることになります。そのため、胎児のヘモグロビンの方が母体のヘモグロビンよりも酸素との親和性が高い必要があるのです。

図30.5 各種ヘモグロビンα鎖、β鎖の発現時期(左)と胎児期のヘモグロビンと成人期の
ヘモグロビンの酸素吸着能の違い(右)。同じ酸素分圧(横軸)では、胎児ヘモグロビン
(青の曲線)の方が成人ヘモグロビン(赤の曲線)より酸素吸着能が高くなります。

 なお、ψζ、ψα、ψβ、ψθ は偽遺伝子とよばれ、機能していない遺伝子です。遺伝子重複ではこうした遺伝子も誕生させてしまいます。これについては次節で触れたいと思います。
  

30.3 遺伝子重複

 遺伝子の重複は、染色体の不等交叉やレトロトランスポゾンの転移などによって起こり、染色体全体の重複などによっても起こります。たとえば、染色体の不等 交叉は 図30.6のような経緯で起こる、ある種のエラーということになります。

 われわれの生殖細胞は、分裂するとき、父親から譲り受けた染色体と母親から譲り受けた染色体の間で、交叉、すなわちDNAの組み換えを起こします。このと き、当然ながら、両者のDNAの対応する部分をお互いに切断し、組み替える必要があるわけですが、これがミスを起こし、図のように一方の染色体に同じ遺伝子が 2つ、もう一方にはその遺伝子が欠如するということが起こり得ます(不等交叉)。これら染色体はそれぞれ別々の生殖細胞となり、どちらが受精するかは確率の問 題ですが、遺伝子が重複した方が受精すれば、それが次世代に伝わることとなります。


図30.6 父親由来の染色体と母親由来の染色体は交叉とよばれる現象によって、組み替えを
起こします。交叉は、原則互いに対応する箇所で切り貼りを行いますが、それがずれることが
あります。その結果、遺伝子の重複および欠失が起こります


 遺伝子の重複によるメリットは何でしょうか?前回、デンプンを多く摂取する民族では、デンプン分解酵素の遺伝子のコピー数が多いという話題がありましたが、 まさに遺伝子重複によるものです。コピー数が多いことで一気に大量にその酵素を合成することが可能となり、デンプンを含む食物の消化の改善につながるメリット があります。しかし、それよりももっと大きなメリットがあります。それは、より安全に新規機能をもった遺伝子を創造することが可能となることです。

 これまで何度も強調してきたように、DNAは偶発的な変異から逃れることはできません。そして、その変異による影響は、多くの場合、遺伝子としての機能を 失う などのネガティブなもので、よくても選択圧に対して中立な変異であって、より適応度の高い遺伝子へと変化する変異、あるいはまったく新たな機能をもつことにな るような変異はきわめてまれにしか起こりません。しかも、まったく新規な機能をもつ遺伝子となったとしても、それによって従来の遺伝子の機能を失うことが有利 かどうか もわかりません。こうした危惧を解消してくれるのが遺伝子重複なのです。コピーをもつことによって、一方の遺伝子で従来の機能を保持しながら、もう一方の遺伝 子でさまざまな試みが可能となるのです。

 ヘモグロビンの例で見たのは、基本的な機能は保持しながら、しかし酸素の吸着能が少し異なるものを複数個もつことによって、胎盤を通しての酸素の供給を可 能 とし、胎生によってより確実に子育てができるようになったというものでした。このように、従来の機能をもつ遺伝子を保持しながら、少しずつ機能の異なる新たな 遺伝子を追加していくことにより、より高等な、より複雑なシステムを備えた生命体を生み出してきたと考えられます。こうした例は、「30.4 視覚、嗅覚、味覚」の節でも見ることができます。

 また、リゾチームとα-ラクトアルブミンの例では、まったく異なる機能をもった遺伝子を生み出し、それが哺乳類という新たな種を生み出す契機の一つとなっ てい ます。こうした例としてよく知られているものに、クリスタリンと熱ショックタンパク質があります。熱ショックタンパク質は、細胞が熱などのストレスに晒された とき細胞を保護するために働くタンパク質で、生物界に広く分布しているタンパク質です。一方、クリスタリンは、動物の眼にあたる器官、水晶体の構成成分で、生 物 種によってさまざまな種類のタンパク質が使われています。熱ショックタンパク質の遺伝子重複によって生じたタンパク質を利用したものもその一例で、眼の誕生 へと結びついたと考えられています(両者の生物学的機能はまったく異なりますが、アミノ酸配列の類似性の高さから遺伝子重複によって誕生したものと推定されて います)。もちろん、クリスタリンが後から誕生したわけですが、クリスタリンの最大の役割は、それが凝集したとき、レンズの役割をするように透明であることで あ り、その条件を満たすタンパク質なら、おそらく何でもよかったわけで、熱ショックタンパク質に多少変異が起こったもので十分に役割を果たすことができ、利用さ れ た、そんな感じでしょうか。ここで強調しておきたいことは、進化とは、最初から先のことまで十分考慮されて設計されたものではなく、偶然の変異の中で、実に場 当たり的に起こってきたということを、これらの事実が示していることです。

 ヘモグロビンの例では、遺伝子重複が偽遺伝子を生み出すことも示していました。重複後の偶発的な変異は、常に成功するわけではありません。失敗作がこうし て遺 伝子の中に残されているのです。ちなみに、われわれのゲノムの中には、遺伝子数と勝るとも劣らない数の偽遺伝子があると推定されています。しかも下等生物には 偽遺伝子は見られず、高等化、複雑化するほどその数が多いことが知られており、遺伝子重複が進化にいかに大きな役割を果たしてきたかを思い知らせてくれます。

 今回の講義資料の冒頭の話題に戻ってみましょう。いまわれわれがもつDNAの塩基配列のすべてが一朝一夕にできたと想定するとそれは絶対に不可能です。し か し、何らかの情報をもつ短いDNAが何億年の期間をかけて偶発的に誕生することは可能です。その後、遺伝子重複と変異によって、徐々にDNAの量を増し、情報 量を増やしてきたと考えれば、偶発性に基づいた進化理論も決して不可能ではないはずです。たとえば、われわれが使う言語体系でも、最初は本当にわずかな単語で スタートしたはずです。その後、単語数を少しずつ増しながら、またそれにともない文法も徐々に変貌しながら、伝えられる情報量を増やし、現在へと至り、いまも 少 しずつ変容しています。同じようなことが生物の進化にも起こったと想定することは決して荒唐無稽なことではないことが理解していただけるでしょうか。もちろ ん、何も証明はされていませんが、多くの生物種のDNAの様相を合理的に説明するものであることは確かです。

 1960年代の遺伝子重複研究初期のパイオニア的存在である大野乾は、遺伝子重複による進化を、「最初の一創造、その後の百盗作」と表現しています。

30.4 視覚、嗅覚、味覚

 最後に、遺伝子重複の例として、視覚、嗅覚、味覚に関わる遺伝子の話題をいくつかお話ししたいと思います。

(1) 視覚に関わる遺伝子

 ヒトは3種類の錐体視物質(赤色、緑色、青色感受性オプシンとよばれるタンパク質)による3色型色覚で色を認識しています。テレビやパソコンの画面 も、 赤、緑、青の3原色の組み合わせで多彩な色を表現しているのはそのためですが、ともすると、色を3原色で表現することが物理学的な要請かと思ってしまいそうで す。しかし、可視光は、ある領域の波長をもった電磁波であり、その範囲で波長は連続的に変化していますので、3原色で色を表現することに何ら物理学的な必然性 はありません。さらに、図30.7で示したように、ヒトを含む高等霊長類は3色型色覚ですが、その他の哺乳類は2色型色覚、多くの鳥類、爬虫類、魚類は4色型 色覚、というように異なっています。進化的にみれば、われわれが3色型色覚であるのは単なる偶然に過ぎません。


図30.7 脊椎動物の色覚。ただし、一番右の列の桿体型は、明暗のみに反応する視物質で、色覚には
含まれません。〇はそのタイプを1種類,◎は2種類 以上 持っていることを表し,×は持っていないことを表しています。魚類には5タイプすべてについて遺伝子重複によるサブタイプが報告されています。

 
 図30.8に見るように、4億年前、脊椎動物は4色型色覚をもっていました。光に反応するタンパク質が遺伝子重複を繰り返し、変異することで強く反応する光 の波長 が少しずつ変化し、役割分担してきたと考えられます。しかし恐竜が栄え、哺乳類は夜の世界で生きるように追いやられると、色覚を一部失い、2色型へと変化しま す。しかし、およそ3500万年前、高等霊長類において、赤型視物質の遺伝子にふたたび遺伝子重複が起こり、その後変異が起こり、一方が緑型へと変化して現在 に至っています。鳥などの視物質が波長全体を均等にカバー しているのに対して、ヒトの赤型と緑型の対応する波長範囲はかなり重なっています。互いにまだ分岐してからの時間が短く、差が小さいということで す。実際、視物質のアミノ酸配列も364個中15個しか違っていません。


図30.8 さまざまな脊椎動物の視物質の系統樹
♡マークのところで遺伝子重複が起こり、4色に対応するオプシンと明暗に反応する
ロドプシンの5つのグループが誕生した。ヒトの青に対応するオプシンは紫のグループに
赤と緑は赤のグループにある。

(2) 嗅覚、味覚に関わる遺伝子

 私たち人間の場合、日常生活で最も関心が高い感覚は視覚ですが、上で見たように、外界の光を感知する光受容体遺伝子はせいぜい数種類しかありません。一 方、 味覚は、甘味、苦味、旨味、塩味、酸味の5種類あり、特に苦味を感じとる苦味受容体遺伝子は数十個あります。一方、嗅覚は、脊椎動物を見てみると、数百から千 数百個もの受容体遺伝子を揃えています。これはゲノムが抱える全遺伝子の数パーセントにもなる莫大な数です。味覚、嗅覚がいかに重要な感覚であるかを物語って います。

 味覚受容体と嗅覚受容体(いずれもタンパク質です)は、塩味と酸味を除き、食餌に含まれる化学物質や空中を浮遊する化学物質と鍵と鍵穴の関係で結合するこ と で知覚する点で共通であり、鍵穴の種類を増やすことで、さまざまな味やにおいを判別する能力を高め、生存率を上げてきたと考えられます。そうした鍵穴の多様化 は、遺伝子重複と変異により達成されました。

 図30.9は、さまざまな種について嗅覚受容体遺伝子の数と、そのうちどのくらいが偽遺伝子化(遺伝子が変異し、機能を失うこ と) しているかを示していま す。マウスやイヌにとって嗅覚からの情報がいかに重要かは皆さんもご存じかと思いますが、われわれはすでに嗅覚遺伝子の半分以上が偽遺伝子化しており、嗅覚か らの情報の重要性がかなり減っています。嗅覚遺伝子の偽遺伝子化は3色型色覚を獲得したことから急速に進んでいます。視覚から得られる情報が嗅覚から得られる 情報をはるかに上回るようになったためと考えられています。

 なお、ヘモグロビンの偽遺伝子では、機能をもつ遺伝子になり損ねたと表現しましたが、嗅覚遺伝子の場合は、もともとは機能していたけれども、変異が起こっ て機能しなくなっても支障がなかったため、特に淘汰されることもなく、偽遺伝子化したまま残ったと考えられます。


図30.9 嗅覚受容体遺伝子の数と偽遺伝子の割合

  30.5 カンブリア大爆発

 進化の中で特筆すべき出来事にカンブリア大爆発とよばれるものがあります。約10億年前に多細胞生物が誕生しましたが、およそ5億4200万年前から5億 3000万年前の間に突如として、動物界の最大の分類単位である「門」に相当する動物たちの祖先が一斉に出現したのです。この爆発的な多様化の原因については まだ明快な答えはありませんが、酸素濃度が現在の20%に達し、オゾン層が出現し紫外線から守られるようになって、陸上への進出が可能となったなどの環境の変 化が指摘されています。新天地にはまだ天敵はおらず、多様な生物が生存可能であったと考えられます。


図30.10 カンブリア大爆発

 こうした種の多様化には、遺伝子重複が大きく寄与しているわけですが、現存する生物の遺伝子の解析からは、爆発的に動物の形態が多様化したと思われる時 期、 すなわちカンブリア爆発には遺伝子の多様化はほとんど見られず、むしろ10億年前〜9億年前および5億年前後およそ一億年の間の2つの期間、すなわちカンブリ ア爆発の数億年前とカンブリア爆発の1億年後に遺伝子重複が盛んに行われたことが分かってきました。遺伝子レベルの多様化と形態レベルの多様化の時期は明らか に重なっていないのです。

 この遺伝子多様化パターンが示唆する最も重要な点は、遺伝子の多様化はカンブリア爆発の直接の引き金ではなかったということです。カンブリア爆発と遺伝子 爆 発の時間的ずれは、カンブリア爆発を引き起こした分子レベルのメカニズムを考える上で、新しい遺伝子を作るというハードの視点ではなく、すでに多様化した遺伝 子をいかに利用してカンブリア爆発を達成したかというソフトの視点が重要であることを物語っています。(宮田隆 進化の話  https://www.brh.co.jp/research/formerlab/miyata/2006/post_000002.html 参照)